深夜二時、オレンジ色のか弱い光だけが灯る台所に、僕は客を迎えた。仕事を終えて風呂に入り、あとは眠るだけのはずの時間だった。
そういう夜が、たまにある。外はいたく静かで、車の音ひとつしなかった。それでも、なんとなく体が先に動いていた。頭で考えるよりも先に、腰が浮いていた。
名は伏せる。呼べば来る、という言い伝えに従って、ここではただ「G」とだけ呼ぶことにする。忌み名の作法である。
シンクの陰で、黒くつやめく背がぴたりと止まった。目が合った、と思った。複眼に「合う」もへったくれもないが、確かに見られた。そう悟った瞬間、僕の中の何かがすっと決まった。
口の中だけで、僕は名乗りを上げた。或いは、誰に向けてでもない、ただの自分への合図だったのかもしれない。分類学上は網翅目、格からすればただの虫けらだが、深夜の台所ではそんな格の話はしない。挑まれたら、受けて立つ。それだけの話である。
かっこをつけているのは、自分でもよくわかっている。それでも、かっこつけないと始まらない夜というものが、そこにはあった。
三十代半ばにもなって、一匹の虫にここまで本気になれるとは、我ながら大したものだと思う。くだらないと笑いたければ笑えばいい。今夜の主役は、僕とこの客と、あとは冷蔵庫のうなりだけだ。
丸めた情報誌を片手に、僕は腰を落とした。呼吸を整える。三十代半ばの男が台所の真ん中で拳を握り直す姿など、誰にも見せられたものではない。見せる相手なら、とうにいない。それでいい。今夜だけは、それでいい。
奴が動いた。コンロの脇へ、低く、そして速く。新幹線の連結より迷いのない身のこなしだった。僕の一撃はむなしく空を切り、乾いた音だけが夜の台所に響いた。悔しさより先に、笑いがこみ上げてくる。これでいい。これもまた、人生というやつだ。僕は笑っていた。負けたわけじゃない、まだ何も終わっていない。
逃げ込んだと見えたコンロの陰から、奴はまた消えた。僕は息をひそめ、耳を澄ませる。足音ひとつしない台所で、冷蔵庫のモーターの音が、静寂の輪郭を縁取っている。三十年以上生きてきたが、ここまで真剣に沈黙と向き合った夜は、そう多くはない。
冷蔵庫の裏へ逃げ込んだ奴を追って、僕は床に這った。膝が鳴る。埃が鼻をつく。床はひんやりとしていて、心もとないくらい静かだった。自分の息の音だけが、やけに大きく聞こえた。惨めな格好であるのは間違いないが、這いつくばってでも譲れないものが、人にはあるのだ。今夜それが、たまたま一匹の虫だっただけの話である。
奴が姿を見せたのは、冷蔵庫の陰をそろりと覗いた刹那だった。是非に及ばず。殺るか殺られるか、である。もう、なりふり構ってはいられない。僕は情報誌を捨て——コップを構えた。心臓が、柄にもなく高鳴っていた。それでも、退く気は少しもなかった。
一息に、伏せる。手応えがあった。コップの中で、奴は暴れる素振りすらほとんど見せなかった。ただじっと、透明な壁の向こうから僕を見上げているだけだった。ちいさな生き物のくせに、やけに堂々としていた。見上げてくるその態度が、なんだか妙に憎めなかった。しばらく、そのままお互いを見つめ合っていた。どちらが先に音を上げるか、なんだか、そういう勝負みたいだった。
「捕まえた」と、僕は誰にともなく呟いた。声は思ったより小さく、台所の静けさにすぐ溶けて消えていった。
僕は丁寧にコップを持ち上げ、縁に幾重にも重ねた情報誌で押さえ、そのまま網戸を開けた。ひと振りで、闇へと帰す。追い立てるでも、締め上げるでもなく、ただ帰すだけだ。深夜二時半の空気が、素足にひやりと冷たい。
網戸を閉め、僕は蛍光灯を消した。台所は、もとの静けさに戻っていく。さっきまでの忌み名も名乗りも、気づけばもうどこにもない。文字に起こすと「虫を追い出した」たった7文字だ。それだけだ。それだけのことに、僕はこんなにも本気になっていた。
ばかばかしいけれど、なぜだか悪くない。悪くない夜だった。それでいいと、なんだか妙に、すとんと納得できた。冷蔵庫は先ほどと変わらずうなっている。台所の時計は、もう二時四十分をさしていた。
手だけは、入念に洗った。