アナザースカイ

束縛欲や独占欲、これらの言葉が犯罪の定義にカテゴライズされてから久しい。その源流はきっと愛によるものであるにも関わらず、だ。誰かを手に入れたいという感情、自分の物にしたいというエゴイズム、源流から分岐したそれは果たして愛足り得るものなのか。はたまた愛足り得ないものなのか。

 

相手を思いやり、相手の為に尽くす。誰か彼かに至福の感情を献上したいという気持ち。なるほど確かにこれは愛と呼ぶべきものだろう。善良で、清廉で、清く正しい道徳的な、ややもすれば聖書に記されていたっておかしくない心情だ。

 

だが「それだけが愛なのか?」と問われれば僕は首を横に振らなければならないだろう。時刻は深夜、あなたを助手席に乗せて赤信号を待っている僕は、煙草を咥えながら言うのだ。「それもまた愛なのさ」と。

 

「元カレより好き!」

 

これはかつて付き合っていた女性の口から出た言葉だ。この時、僕は思考と感情を失った。元カレ、それは好きな人の過去の男、英語にするとex boy friend。元カレEX。元カレEX?心の中でモヤモヤと燻る幻煙が、僕のピュアなハートを蝕んでゆく。一体?何故?今唐突に?元カレの話を…?青天の霹靂、悲しみよこんにちは、平穏よさようなら。

 

突如紡がれる悲しみのロックンロール。それは彼女にとってはなんでもない話だったのだろうし、文脈から察するに、彼女の中でより効率的な愛の伝え方であったのかもしれない。だけどそれは経験浅い当時の僕からすればジーマーで勘弁、真にノーセンキュー。昔の男、この三文字を聞いた時、僕は思う。こいつ…俺の他にも愛した男がいたのか…‼そんな当たり前のことを改めて認識すると酷く残虐的で、絶望的な感情が眼前に訪れる。なぜなら、彼女が僕以外の男を愛したその時その時期その瞬間、彼女の中に僕の姿は存在しないからだ。過去に起こった出来事を変えることなど出来ないからだ。

 

だからこそ、苦しい。決して手の届かない、変えられない事実がどうしようもなく辛く、悲しい。

 

彼女の全てを知りたいと願うことは、愚かなのだろうか。あなたの今も、過去も、そして未来も僕の物にしたい。という切望は、望んではいけないものなのだろうか。かつでアダムとイヴは禁断の果実を口にして楽園を追放された。果たして僕は彼女の全てを知ったその時、一体何を失うのだろうか。

 

幸せそうに傍で笑う彼女に、僕は恐る恐る話しかけた。

 

「元カレって…?」

 

聞きたくない!そう思っていた筈なのに、何故だか僕の口からは続きを求めるような言葉が出ていた。人間は知りたいという欲求の前ではあまりにも無力であった。昔の彼女が何を考え、どんな恋をし、どんな男が好きだったのか。知りたいけれど知りたくない。そんな葛藤が、僕の胸の内で猛り狂っていた。

 

大体、聞いてどうする?聞いたところで何が変わる訳でもないし、どちらかと言えば、傷ついてしまう可能性の方が高い。聞いた後、彼女の後ろにその男が付き纏ってしまう恐れすらある。デートをした時、キスをする時、インザベットのその瞬間、脳裏に写る元カレの影。元カレEX。まあそれはそれで興奮するかもしれないけれど、残念ながら今はその話じゃない。

 

しかし、僕は聞いた。聞いてしまった。賽は投げられた。時間は決して戻らない。それはまるで禁断の果実が枝から零れ、必ず地面に落ちてしまうように。僕は彼女に元カレの話を聞いてしまったのだ。

 

「昔付き合っていた人なんだけど…」

 

そうしてつらつらと話される彼女の昔の男の話に、僕は果たして何を思えばいいのか、そして何を思わなければいいのか分からなかった。答えなんてなかったのかもしれない。だけど年若い僕はついつい真面目に考えてしまう。「こいつはこの話を聞かせて何をしたいんだ…?」僕が元カレの話を聞いたのに、元カレの話をされた途端に不思議に思うのは少しおかしな話だが、その時の僕は確かにそう思ったし、そう感じずにはいられなかった。

 

今思うに、彼女は昔の男と僕を比較して、その愛の差異によって僕への愛を感じているのではないのだろうか。何かひとつの物事の価値を推し量る時、相対する何かと見比べてみて初めてその違いは顕著に表れる。彼女は極めて抽象的かつ主観的に、昔の男の人となりとか、僕の考えていることとか、そういった具体的な差異を一切捨てて、ただの『昔の男』と『今の男』という記号して取り扱い、そうして『彼女がされて嬉しかったこと』で勘定し出された愛を推し量っていたのではないだろうか。そうして導き出された答えが「元カレより好き」ということだ。

 

なるほど。そう考えると理解は出来る。だが、残念ながら共感は出来ない。なぜとなれば、それは僕を介して昔の男を見ている何よりの証左だからだ。「なんて心の狭い男なんだ!」そんな声が聞こえてきそうではあるが、それでも、それでも!それが僕の嘘逸らざる本音なのだ。僕だけを見てほしい!叶うのなら、君の初めては僕の物であってほしかった!

 

しかし共感こそはできないものの分かったこともある。それは彼女がそういった判断基準の思考を有している、ということだ。それはひとえに彼女へ愛を伝えるテンプレートがひとつ生まれたということに他ならない。自分がされて嫌なことは他の人にもしてはいけない。自分がされて嬉しいことは相手にもしてあげなさい。これはかつて枕元で母が語ってくれた道徳だ。相手を思いやり、相手の為に尽くし、誰か彼かに至福の感情を献上したい。きっとそれは愛と呼ぶべきものなのだ。

 

 なればこそ、なればこそ僕も愛を以て、愛を伝えなければならないだろう。他でもない全てを話してくれた彼女の為に。

 

「元カノより好きだよ…」

「は?彼女に元カノの話するとかマジありえないんだけど。死ねば?」

 

 冷静になって考えれば昔の恋人の話を今の恋人にするなんてバカなんじゃない?結局、過去の恋愛が意味を持つのは当人に対してだけであり、第三者からしてみればテレビのニュース程度も価値のない無意味なものだ。

 

「じゃあなんでお前は元カレの話を…?」

 

いや、もうやめよう。きっとそこに意味なんてないのだ。彼女はただ話したかった。ただそれだけのことだったのだ。すべての物事に意味なんてない。ただそこにあるだけ。そういった物も、確かに存在する。

 

結局のところ、言葉の真意や裏側を読む必要なんてないのかもしれない。彼女が何を話そうが、ただ、今この瞬間は僕の横にいてくれている。それが全てであり、そこに御託を介在する余地はないのだ。

 

だから僕らがすべきことは、より大きな懐を以て『過去の彼女を内在している今の彼女』を愛するべきなのだ。過去に何があって、どんな恋をして、どんな男と付き合ったのか。その全ての過去を経験した彼女を、僕は好きになったのだから。

 

そうして、いつか、そんな過去の話を楽しんで聞けるようになったのならば、それはとても素敵なことなのだと僕は思う。

 

 

「も、元カレのよりおっきぃぃぃぃ!!!!✌✌」

 

ラージ・ザン・元カレEX。比較してこそ初めて生まれるアナザースカイ。この悦びは、きっと、 誰かの何かと相対しなければ決して辿り着けない至福の境地。時刻は深夜、あなたを助手席に乗せて赤信号を待っている僕は、煙草を咥えながら言うのだ。「それもまた愛なのさ」と。